はな違い

 花粉症がきつい。重度の花粉症で、鼻水はもちろん出っぱなしで、目と鼻と、時に喉や耳の奥まで痒くなり、ひどい時は熱っぽくなってほぼ風邪と変わらない。

 小学生の時から一年中花粉症で、春以外は「この時期に花粉は飛んでないでしょう」とよく言われた。鼻水はさらさらと流れ出てくるから、ティッシュがもったいないので、部屋にいるときはタオルを首にかけて鼻水まみれにしていた。

 花粉症が治るなら、寿命一年くらいなら差し出してもいいかもしれない。あと視力が治るならもう一年、十代の体力に戻るならもう一年、ついでに身長が伸びるならもう一年と願望は尽きないが、やっぱり早死にするのは嫌だし、そもそもあと一年あるのかもわからない。はな違いで着陸してしまった花粉に多少は同情しつつも、そんな些細なことに振り回されている場合ではないのだ。

船出

 新しいことを始める時に何かをやめる必要はないと考えているけど、何かをやめればその分身軽になって動きやすくなることは確かである。

 一つ、半年ほどやってきたことをやめた。時間が経てばまたやるとも思う。とりあえず今はやめることにした。やめることが出来るのは一つの強みだと思う。環境にとらわれて身動きが取れなくならないように、常にフットワークを軽くしておきたい。いつでもやめてやるし、いつでも新しいことをゼロから始められるんだという自信をつけておくことが大切だと思う。

 やってきたことには、人もセットでついてくる。そこには関わってきた人たちがいる。やめるということは、その一部の人たちとの関係を断つことだ。そんなことを望んでいるわけがないけど、前に進むためにはそれが必要な時があるのかもしれない。ありがとうを過去形で言えば、本当の別れがそこに生まれる気がして、何も言わずに船を出す。また会えることを願う。

三時のぶらり

 深夜三時過ぎに外をぶらぶら歩いていると、人通りが減ってかき混ぜられなくなった空気が、とても透き通って感じられる。感じられるだけで、そんなことはない。

 決して安全運転とは言えない速度で駆け抜けていくトラック、棚の整理などで忙しないコンビニ、その明かりに群がって休む車たち、人々の呼吸が聞こえてくるようで聞こえない。

 夜は孤独に思えるが、そこに生息する人々と、とても深いところでの結びつきを感じる。一人あたりの面積が広いから、ゆったりと自分も他人も見つめる余裕があって、そうやって朝へ向かっていく時間を共有していることそれ自体に強い意味を感じる。でもたぶん、結びつきも意味もない。

 孤独は消えないが、そのおかげで共有できる孤独がある。

まずつづける

 三日坊主という言葉がある。長続きしないということであるが、それはきっと、やろうと思っていることへの理想が高いことが原因の一つにあるだろう。書くことを始めて三日目、これくらいのものでいいでしょうという感じで、適当に済ませてみる。

 まずやってみる、その次に、まずつづけてみる。

もっと楽しく

 思えばもう五年以上の間、万全の体調であることがほとんどなく、不安ばかりの日々だった。腹痛、嘔吐、耳鳴り、動悸には常に悩まされていたし、何度もめまいとともに倒れて冷や汗だらだら、病院に運ばれても異常なしと言われるだけで、もう死が近いのかもしれないと何度も考えた。感じたことのない痛みが全身に現れたり、決して弱くないはずだった精神もかなり疲弊していたと思う。

 多くの人に助けられてきたと思う。まともに他人と連絡も取れないし、時間も守れないし、当たり前のことを当たり前に出来ない。ただ諦められているだけかもしれないけど、それでも変わらず接してくれる人たち、誘ってくれる人たちがいる。現実にも、インターネットにも、大切な人たちがいる。幸せなはずなのだと思う。

 絶対に朝は来ると自分に言い聞かせて歩いてきた。そのために徹底して自分のために生きた。たぶん失ったものも多くあるけど、得たものも多くある。半年ほど前から徐々に回復が見られて、ここのところ、とても体調が良い。楽しい。たぶん、たぶん大丈夫だ。これからもっと楽しくなる。楽しくする。

みち

 やりたいことが多すぎて、考え過ぎた挙句に何も始まらないことが多い。思いついた直後はわくわくが止まらなくて、あれもしたいこれもしたいとアイディアが溢れてくるのに、さらに具体的に考えていくほどに、様々な問題が出てきて、結局まとまらなくなる。

 そんな自分が嫌になるから、とりあえず小さく小さく始めてみる。始めてみれば見えるものがあって、始めてみないことには見えないものがある。未知の世界を冒険したい。未知は道なのだ。