昼夜逆転逆転
昼夜逆転を無理矢理なおすことに成功した、と思う。午前中に映画を一本観て、一日がとても長く感じた。だけど起きるのが早すぎると、夕方ごろからとても眠い。一日が長いとそれだけで少し充実したように感じる。
昼夜逆転を無理矢理なおすことに成功した、と思う。午前中に映画を一本観て、一日がとても長く感じた。だけど起きるのが早すぎると、夕方ごろからとても眠い。一日が長いとそれだけで少し充実したように感じる。
書くことに慣れるために、なんでもいいから毎日少しでも書くということを始めてもうそろそろ二週間ほど経つけど、いっこうに慣れない。日々に変化がないことが大きな理由だとは思う。もう一つ理由があるとすれば、ストレスがあまりないことかもしれない。ありがたいことに、今とても落ち着いていてストレスがかかっていないので、体調も良いし特に大きな不満もない。不満は言葉を加速させるし、意欲を増強する。
意図的に、不快感のある場所へ足を踏み入れることも必要かもしれない。
一週間がはやい。はやすぎる。だめだ。足りない。時間が足りなすぎる。音楽を聴いたり絵を見たり動画を見たりしていた週間だった気がする。量はかなり少ないけど、とても久しぶりに受信したくなったので、いろいろ見てみた。そういうこともやっていこう。ずっとやろうと思っていたことにようやく着手したので、絶対に、一週間である程度の成果物を出す。自分のケツを叩くために宣言しておく。
いろいろやろうと思っていたことを何一つせず穏やかに一日過ごした。そのほとんどは寝ていた。今日は何もやらないと決めて、やらないをやったとも言える。何もやらない一日を終えると、頭が少しすっきりしたような感じで、動き出せそうな気がしてくる。
やりたいことが多すぎると、頭がごちゃごちゃして、実はたいして多くないものがとても多く思えたりする。時々整理したり頭を休めてみると、やるべきこと、本当にやりたいことがくっきり見えてきたりする。これから、いろいろやろうと思う。
絵が上手くなりたい。何かを上達させたり会得したり新しいことを始めてみたりしたいことはたくさんある。時々思うけど特に取り掛かるでも練習を始めるわけでもないものの一つに絵がある。絵は幼い頃から苦手で、上手くなれる気があまりしなくて、それでも描いていたりすることはあって、気づけばたまに上手と言われるくらいには上手になっているみたいで、どこかのタイミングで気合を入れてやってみたいという気持ちがあった。
またどうせすぐ飽きる可能性は高いけど、ちょっと勉強したり練習してみようと思う。何事も練習が嫌いで、すぐに諦めてしまうことが多いけど、素直に練習というものをしてみようと思う。続いたとしたら、一年後はどうなるだろう。楽しみだ。
雪が降ったことを知らされて、少し遅れて雪の積もった景色を見てきた。雪はすきだ。雨も夜もすきだ。なんとなく寂しさを感じるものがすきだ。寂しさは勝手にこちらが感じているだけなんだけど、とにかく寂しさや切なさがすきだ。とはいえ底抜けにハッピーなものもすきだ。
絶望の中にある希望がすきだ。それは本当の希望だからだ。ネガティブに思われるものがすきだ。そこに必ず本当のことが隠れているからだ。つまり本当のことが知りたいのであって、ただただつらい寂しさも切なさも希望のない絶望も大きらいだ。
話はもどり、雪がすきだ。まだ一度もかまくらを作ったことがないので、でっかいかまくらを作ってみたい。
昼夜逆転しているし、日付も曜日もわからないくらいに感覚を失いつつある。無理にでも矯正していかないと、このままひたすらずれ込んでいって、また体調が悪くなってしまうかもしれない。なるべく午前中に外へ出て日光を浴び、ちゃんとご飯を食べて、適度な運動をして、ちゃんと寝よう。それだけでなんとなく、まともに生きている気がしてくるくらいには不規則な生活をしている。
やることが多いから仕方ない。いや、実際に手を動かしてみたらそうでもないかもしれない。正確にはやりたいことが多いのであって、頭の中が忙しい。やっていくと決めたことがあって、静かに動き始めていて、もう間もなく始まろうとしている。準備段階や始めたばかりはいろいろと大変だけど、習慣として馴染ませることが出来てしまえば、もうそれは楽しい日々のはずである。
不思議な話にはなってしまうけど、つい最近、白い光を見た気がしたことがあった。詳しいことは割愛で、こういうこともあるのかもしれないと思うことが今日あった。そんな出来事と関係あるのかないのか、母が外出し父が家にいる。台所に用意された夕飯を自室に運ぶ。涙がぼろぼろ溢れてきた。いろんな理由で言葉にしにくいこの話を、未来の僕が憶えているかはわからないけど、欠片だけでも記しておこうと思った。何かを気づかせようとしてくれている、とんでもなく大きな大きな、きっとやさしい何かのそばにいるような気がする。
花粉症がきつい。重度の花粉症で、鼻水はもちろん出っぱなしで、目と鼻と、時に喉や耳の奥まで痒くなり、ひどい時は熱っぽくなってほぼ風邪と変わらない。
小学生の時から一年中花粉症で、春以外は「この時期に花粉は飛んでないでしょう」とよく言われた。鼻水はさらさらと流れ出てくるから、ティッシュがもったいないので、部屋にいるときはタオルを首にかけて鼻水まみれにしていた。
花粉症が治るなら、寿命一年くらいなら差し出してもいいかもしれない。あと視力が治るならもう一年、十代の体力に戻るならもう一年、ついでに身長が伸びるならもう一年と願望は尽きないが、やっぱり早死にするのは嫌だし、そもそもあと一年あるのかもわからない。はな違いで着陸してしまった花粉に多少は同情しつつも、そんな些細なことに振り回されている場合ではないのだ。
新しいことを始める時に何かをやめる必要はないと考えているけど、何かをやめればその分身軽になって動きやすくなることは確かである。
一つ、半年ほどやってきたことをやめた。時間が経てばまたやるとも思う。とりあえず今はやめることにした。やめることが出来るのは一つの強みだと思う。環境にとらわれて身動きが取れなくならないように、常にフットワークを軽くしておきたい。いつでもやめてやるし、いつでも新しいことをゼロから始められるんだという自信をつけておくことが大切だと思う。
やってきたことには、人もセットでついてくる。そこには関わってきた人たちがいる。やめるということは、その一部の人たちとの関係を断つことだ。そんなことを望んでいるわけがないけど、前に進むためにはそれが必要な時があるのかもしれない。ありがとうを過去形で言えば、本当の別れがそこに生まれる気がして、何も言わずに船を出す。また会えることを願う。